自由民主党・月間女性誌「りぶる No.277(4月号)」
| “不思議”だけではなく 夢のある奇術世界を追求する スパーマジシャン 北見マキ マジシャン 社団法人日本奇術協会会長 |
身近な品を使い、客の目の前で演じるクロースアップマジックをはじめ、昨今マジックが大人気を博しています。独学で習練を積み、和・洋の奇術を自在に我ものとしてきた北見さんは、国際的にも声価の高い日本奇術界の第一人者。日本伝統の奇術「和妻」の無形文化財認定への多大な貢献をしたことでもその名を知られています。芸歴40年、松旭斎天洋賞など数多くのベストマジシャン賞を受けている北見さんは、社団法人日本奇術協会会長として、さらなる手品の大衆化、後進の育成に力を注いでいます。 |
| 練習第一で手先の器用、不器用は無関係 一瞬の心の迷いが失敗につながる 引っ込み思案で口下手の少年だった 末梢神経を使う手品は老化現象のの妙薬 |
きたみ・まき 昭和15年北海道生まれ。室蘭商業高校卒業後自衛隊に入隊。卒業後、手品用品販売員を経て昭和40年に東宝名人会より奇術師としてデビュー。西洋奇術だけではなく日本の伝統手品「和妻」の世界にも精通し、独自の世界を造り上げるそのステージは海外でも評価が高い。文化庁芸術祭賞、ベスト・インターナショナル・マジシャン賞など受賞も多数。社団法人日本奇術協会会長 |
| 「和妻」への熱い想い 北見さんは昭和51年に大阪の和妻の家元・帰天斎正一師から、養老滝之助の養老派の家元の継承を許可されている。 「古い日本手品にもよさはある。これを現代風に演出すれば絶対に通用し、和妻の芸を残すことにつながる」という信念からの大阪通いだった。水芸、胡蝶の舞(紙蝶)などの伝統的手品の衰退傾向を憂うたのだ。関係文献、資料の蒐集にも努め、文化庁への働きかけも行った。その努力が実り平成9年5月には無形文化財にも認定されている。 平成4年には、奇術生活30周年記念リサイタルの和の部の『妖面』などが評価され、演芸部門で芸術祭賞を受賞。『妖面』は能の世界をイメージした光と影が織り成すドラマチックな文字通り面妖な世界で、北見さんの芸の代表作ともなっている。 布晒しから次々と和傘を取り出す『万倍傘』、こよりで固く結んだままの両親指が瞬時に真剣の刃を通す『柱抜き』など、紋服、上下姿で演じる端整な所作と見事な手さばきは、洋妻に見られない格調に富む美しさが揺曳する。 取材・文/井澤忠夫 撮影/藤田政明 |
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練習第一で手先の器用、不器用は無関係
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| 主宰するマジック・スタジオの床はフローリングで、側面は上下いっぱいの鏡張り。 「四六時中、演じ方、つまり見せ方を考えています。鏡は第三者の目で見られますから」 客席からどう見られているのか、どんなポーズが興味をそそるのかなど、ここでは様々な角度からの研究が出来る。 それにしても手品師の美しくも鮮やかな手さばきはどうだろう。 「手先の器用さは関係ありません。興味を持ったら、後は練習のみ。練習の成果がすぐ表れるのが手品なんです」 一口に手品、奇術といっても大仕掛けなものから、身近な品物を用いるものまで分野は広いが、共通する魅力は『不思議さ』に尽きるといえる。 「でもね、不思議、不思議といっても、ビックリ箱を開けておどかすわけではないから、何でも出せばいいっていうものじゃないんです(笑)」 確かに不思議さだけを見せつけるだけならば、練習を積んで技術を身につければ、素人でもできるといえるかもしれない・・・・・・。では、北見さんの指すプロとは? 「不思議さ、驚きだけではなく、それにプラスする何かを伝える。北見の芸は一味違う。見てよかった、楽しかった、夢がある・・・・・・。そう言っていただけるような手品師を目指してきました。自分が考え、練習を重ね、計算して演じた技、表現が観客の心をつかんだと思えるとき、反応があったとき、一言でいえば熱い拍手が何よりの喜びです」 芸人冥利に尽きる瞬間とは、こうした客と演者の感動の共有なのであろう。 ところで、手品は別名「手妻」とも呼ばれる。これは江戸期、手品が盛行し、稲妻の閃光のように瞬間の早業を見せるという意味から来ているらしい。明治維新、文明開化で西洋手品が入り、日本伝統の手品を「和妻」、西洋手品を「洋妻」と呼んだ。 北見さんのマジックは1万を超えるレパートリーがある。洋妻はもちろんのことだが、特に和妻の伝承には尽力しており、その気迫のステージには高い評価が内外から寄せられている。 |
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| タネと技術を完全に消化して、 そこから自分なりの 表現方法をつくり出す。 オリジナリティーのある 奇術でなければ、 北見の芸にはなりえない。 |
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一瞬の心の迷いが失敗につながる
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「極端にいえば手品のタネは簡単なんです。タネや道具はあくまで素材であって、芝居でいえば台本に当たる。ですから台本は徹底的に覚えなければならない。これがベースです。技術は練習によって磨くことができます。しかしここまででは不思議を見せるに過ぎません。台本を完全に消化して、そこから自分なりの表現方法をつくり出す。いかに見せるか。オリジナリティーのある奇術でなければ、北見の芸にはなりませんからね」
「幻想的なものにするか、あるいはドラマチックなものにするか。研究の段階では能や歌舞伎、日本舞踊なども参考にします。そして全体のイメージをつくり上げ、イメージに沿って起承転結のストーリーを考えるんです」 掛軸を顔の前にかざし、上下する一瞬で付けた面が変わるという、面を使った北見さんの会心の出し物『妖面』の場は特にこの要素が強く出ているといえるだろう。 「失敗は付きものですよ。ミスを最小限に食い止めるためにも練習を繰り返すんです。技術的な場合もあるし、セッテングの問題など、いろいろ失敗の条件はあるんです。同じ紐でも鋏でも、今日は新しいものを使うとなると神経を使い、緊張しますよ。持った瞬間の感覚がいつもとちょっと違う・・・・・・。心の迷いが失敗につながるんですね。新車のハンドルさばきに似ているといったら分かりやすいでしょうか」 失敗を失敗と見せないのもプロの腕前だから、一般客にそれとすぐ分かることはない。だが本人には冷や汗ものだ。 「新しい手品、出し物をやるときは、特にお客様の反応が怖いですね。私の舞台をある程度見て、知っている人から、何だ、今日の芸はと思われたり、言われたりすることだってありえますから」 新人と同じスタートラインにつく、初心の心境なのだ。 「技術もさることながら、その人の奇術に対する感性もあるでしょう。よかったといわれるのは、それらを含めて、その人ならではの持ち味が十分に発揮されたときでしょうか」 座右の銘を「夢と努力」とするこの人は、その言葉そのままに手品道を一心不乱に突き進んできた。「あんたの先生は誰? ド素人上りか・・・・・・なんて楽屋で言われた時代もありました。小さくなっていましたよ。いまは誰もそんなこと言いませんね。私自身、素人から上がってきましたって公言していますし」 会長を務める日本奇術協会は現在100名弱会員が所属しているが、その8割は素人出身。しかしかつての芸人世界は強固なタテ社会だった。 |
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引っ込み思案で口下手の少年だった
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しかし、少年期のころの北見さんは、いまからは想像もつかないほどのおとなしく目立たない存在だった。「人前に出るのが大の苦手、赤面症、口下手、引っ込み思案、歌もダメ・・・・・・という、およそ内向的な性格でした」 そんな少年が変身を遂げる契機となったのが中学3年の卒業謝恩会。クラスの班ごとに何か出し物をやらなければならなくなったのだ「しゃべらずできるものはと考え抜き、手品に思い至ったんです。手品の入門書を本屋で探して、これならできそうだと」 コップの水に浮かぶ卵を浮き沈みさせるという単純な手品だったが、大いに受けた。 「みんなの視線を一身に浴び、目立たない自分が注目されたのは初めてでした。不思議がこんなに人を引きつけるものかって。同時に人ができないものができるんだ、やった! といううれしさで、自信もつきましたね。この経験から、『子どもさんが好きなことはやらせてください。勉強もそうですが、ほかのところでも自信がつきますから』って、よく親御さんにいいますよ」 その後室蘭商業高校に進学。在学中の3年間は手品の勉強と並んで演劇部の活動に「のめり込んでいく」。このとき得た舞台の知識、経験が後の北見さんの大きな財産となっていった。 |
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若いときは頭ではなく 体で覚える大切な時期。 これからは自分が培ってきた 40年のキャリアと 新しいものをつくり出すベースを 次世代の若者にすべて教えたい。 |
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末梢神経を使う手品は老化防止の妙薬
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札幌の小さなデパートを回って販売をしていたのが40年ほど前のこと。当時、手品商品はゴマカシ、インチキという印象を一般に持たれていた。そのためか、1日1個しか売れないようなありさまが続く。おまけに給料は歩合制。朝食を抜いてデパートの社員食堂を利用するなどの節約生活を強いられるが、好きなことをしているので、さして苦ではなかった。 1年後、さらに技術を磨くために上京を決意する。 「東京の奇術のレベルが違い、販売員はセミプロ扱い。アマチュアのレベルも高いから、こちらがうまくなければ客は集まらない。ほかの販売員には負けたくない一心で、ネタは一晩で覚えるよう練習しました」 上京後間もなく日本奇術連盟から誘いがあり、そこで恩師となる高木重朗氏(当時副会長で国会図書館主任)の指導を受ける。同氏は海外の奇術書翻訳、材料購入などを行っており、日本奇術界の育ての親であった。 「ビデオもないころですから、外国人の日本公演には何十回と通い、頭の中へ仕草を叩き込み、メモも取りましたね。普通の人には分からないが、1回はトチる。そこからタネを割り出すことができるんです。早く独立して自分の芸をつくりたい、演目を増やしたいという思いでいっぱいでしたね」 昭和40年(1965)の旧東宝名人会でのデビューからすでに40年。現在は次世代の奇術界を担う人材を育てたいという新たな夢の発進に瞳を輝かせる。なかでも和妻の後継者の育成には格別の強い期待を持っている。 40年のキャリアをそっくり教えたい。新しいものをつくり出すベースを先に教えてしまうんです。ゼロからやれというのはかわいそうなこと。昔とは時代も違う。若いときに最初からもっと教えてくれたら・・・・・・と私自身が思いますか
独学で手品道を追及してきた人だからこそ「教える喜び」はひとしおだろう。 「手品は末梢神経を使いますから、老化を防ぎますし、人に見られることで自分も磨かれ、心身の若さを保つにはもってこいですよ」 そう語る北見さんの表情や動作には、少年のような弾みが溢れていた。 取材・文:井澤 忠夫 撮影:藤田 政明 |
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| 月間女性誌「りぶる No.277(4月号)」自由民主党発行. |